オンリーワン@脱天理教教会後継者ブログ

脱天理教教会長後継者等変わった経歴の30代が思想・哲学・生き方を生き方をぶっ放します。

何故、天理教の教祖は「おつとめ」を重要視したのか??

 

オンリーです。

 

僕自身は天理教という家庭に育ったとはいえ、

現在の天理教に対しての信仰心というものは

 

皆無に等しい状態です。

 

しかし、とはいっても僕自身は

無神論者かといわれたらそうではなく、

 

様々な観点から学び・考えていくことで

導き出した答え

 

それが、

 

「自分は天理教を信仰する意義はない」

 

という結論に導き出されたことが

大きかったりします。

 

その中でも、

天理教

一番大きな違和感を感じたこと。

これは組織の中でもはや洗脳しているとしか言いようがない

こと。

 

それが

 

「おつとめ」の存在です。

 

毎日朝夕におつとめという

祈りというべきなのか

 

楽器を鳴らし歌う時間というべきなのか

 

それを絶対につとめないといけない

義務があるのだろうか??

 

そして月に1回ある月次祭では

天理教の原典である「みかぐらうた」というものを

すべてうたい、踊り、演奏するという

 

全部をやると2時間以上かかる儀礼

天理教の教会に関わる人間は毎月最低1回はするわけです。

 

しかし、これが組織内であれば

自分の教会をつとめれば、上級もつとめる

 

大教会もつとめるなど、

 

人によっては毎月3回・多い人は10回つとめる

 

要は1か月30日間の間の3日~10日間、

この月次祭

 

毎日普段の「おつとめ」

する時間にリソースをかけている人たちが

現在もいるということです。

 

それがいいか悪いかは正直置いておいたとして、

僕はそれが違和感にしか感じなかった。

 

会社員の人たちは毎日無駄に多い

「会議」で時間を奪われ、

時間貧乏になっているのと同様

 

天理教では「おつとめ」によって

時間を奪われ、

時間もお金も貧乏になる仕組みが

構築されているわけです。

 

教会で生まれ育った人たちは

毎月の「おつとめ」によって

楽しい学校生活を休まなければならなければ

(僕は学校嫌いだったので、休めて喜んでいた人間ですがw)

 

社会人であれば、仕事の休みの日を、

プライベートを充実させる時間を犠牲にし、

そこにそそぐ義務が今でもかせられている人も

今でも少なくないでしょう。

 

しかし、そもそも「おつとめ」って

なんでできたのでしょうか??

 

「人を助ける為だ」

 

と教えられた人がほとんどだと思いますが、

 

そんなことであれば社会に出て働いたり、

人に役に立つことを仕事にした方が

 

人を助ける一手につながるのではないでしょうか??

 

ここには、当時何故おつとめを作ったのかというところを

天理教内ではなく、外の動きも

俯瞰的、広い視野で見ていく必要があります。

 

当時、天理教の教祖であった「中山みき」さんは

 

世界助けをせき込むために、神様の教えというものを

 

周りに民衆の方たちに伝えたかったから

 

天理教たるものの教えを世に広めようとしたわけです。

 

(恐らく本人が天理教という宗教を作りたかったかといえば、そうではなく、

周りが宗教にしないといけないと崇め奉ったから仕方なくなっていったのでしょう)

 

その時は江戸時代。

 

ちょうど天理教の中で立教したといわれている

元号天保です。

 

江戸幕府の傘下にあった時代で、

 

基本的には学問などは今よりもはるかに教わることが

難しかった時代背景の中であるわけです。

 

しかし、当時の神仏を信仰する中では一つ、

大きな問題があったわけです。

 

それは、民衆が神道で伝わっている

八百万(やおよろず)の神や、

仏教で伝わっている思想が鎌倉以降、

大きく枝分かれしてしまったこと

 

または弾圧されたとはいえ、隠れキリスタンがいたりなど

この国の思想は徳川幕府によって

儒教朱子学)が台頭していたとはいえ、

 

枝分かれもすれば、

民衆の学力が今に比べて更に追いついていない時代だったわけです。

 

その中で、どうすれば神仏を信仰できる世の中にしていけるのか??

 

世界各地の人たちが、

より幸せにできることはなんなのか??

 

全ての思想を受け入れることができ、

全人類が仲睦ましくいれる領域を作る為にはどうすればいいのか??

 

そういったことを踏まえたうえで考えたことが

 

神様の教えを学力がなくてもわかるように簡略化し、

「おつとめ」というものを作ることだったのだと思われます。

 

何故か??

 

神社にいけばよく分かると思いますが、

 

日本にある有数の神社は

神社によってご祭神というものが全く違うわけです。

 

例えば、伊勢神宮では天照大神という太陽神、

天津神の中では最高神ともいわれる神様が祀られていますが、

 

出雲大社には大国主の尊」であったり、

厳島神社では宗像三女神

橿原神宮には神武天皇

明治神宮には明治天皇

がまつられているなど、

 

人間なのか??神なのか??

それすらも曖昧な目標が祀られることが多く、

 

とてもではないですが、

当時の民衆がそこまで神社の神様を勉強できるほどの

学力がなかったわけです。

 

そして祈り方も曖昧でした。

二礼二拍手一拝なのか??四拍手一礼四拍手なのか??

 

祭典時の何か音楽などを奉納するとなると

雅楽や能などの芸術的分野のものを神様に奉じるとなれば、

 

それこそ民衆レベルで神仏に喜んでもらえるものであったり、

人を助けたいと思う時の祈る方法が

 

当時はほぼないに等しかったわけです。

 

その現状を大きく変えたかったのが

天理教の教祖「中山みきだったわけです。

 

神がかりの話は記録である故、

本当にあったのかは定かではなく、

これに関しては触れませんが、

 

まずは曖昧な八百万の神という概念をなくし、

 

その神様たちを「天理王命(てんりおうのみこと)」

という神名一つに集約させることにしたわけです。

 

そこに天理王命の働きを「ご守護」というものに例え、

「十全の守護」であったり、「元の理」などの

教えへとひも解いていったと考えられます。

 

そうすれば、神道的な難しさというものがなくなり、

全てがこの世の創造神である「天理王命」のご守護だと思うことで

 

そんなに考えたり勉強できなくてもよかったりする

世の中、空間を構築することができたわけです。

 

そしてそのうえで、そんな勉強や芸術分野などができなくても

神様に祈ることができる方法というものを

作ることが一番重要でした。

 

当時の人たちは祈る方法がわからなかった。

信じる者がなく、生きる指針というものが

見当たらなかった。

 

そこで考えられたのが「おつとめ」でした。

目標が決まったわけですから、

そこに対して祈るもの。

 

しかも誰でも少し習えば

奉納ができ、

楽器も奏でることができるもの。

 

それが「おつとめ」でした。

 

つまり、

天理教「おつとめ」というのは

神社でいう雅楽」や「神楽」などの奉納する

舞や音楽と同じものであり、

 

お寺でいう「声明(しょうみょう)」や「お経」であり、

 

宮中でいえば「御神楽の儀」

演奏される「神楽歌(かぐらうた)」

のようなものだということです。

 

それを教祖は国としての音楽というより、

民衆の音楽として

 

おつとめに使う楽器も

「当時民衆に使われていた、流行りのある楽器を選定された」

と推測されており

 

踊りも雅楽や巫女さんが舞う舞などよりも

はるかに簡略化し、

尚且つ大人数でも踊れるようなものを作り、

 

それによって心が晴れやかになり、

人々が助かっていくきっかけになると見越して

 

「おつとめ」というものを構築したかったのでしょう。

 

そして宗教を作りたかったというよりは

 

新たな「神道を構築したかったのだと伺えます。

 

神道というものは曖昧です。

宗教なのか宗教じゃないか??

 

神社庁「神社」というのは

宗教団体ではあるものの、

神社という場所に参拝に行く人たちは

「宗教」を信仰している人たちはないわけです。

 

教祖も書物を読んでいると、

そこまで宗教団体にしたいということは否定的だったようです。

 

「講をつくれ」とはいったものの、

教会制度に関しては周りの後押しによって

仕方なく認められたという感じだったんですね。

 

そして一番重要な言葉こそ

 

「心次第が天の理」

 

要は人間の心が重要だということです。

 

これは天理教ならではの教えというより、

ある種神道的であり、

 

「自分の大切なことは心で決める」

 

これを軸におくことが重要で

 

継承されているおつとめを

すること・しないことも

 

義務ではなく、

各々の心で決めていくこと。

 

これが非常に大切なんじゃないかと思います。

 

ある種、最近では「おつとめをしなければならない」

 

どこかでおつとめの否定をしてはいけない。

 

そういった脅迫観念が

起こっているなと思ったので、

 

信仰していない人間が、俯瞰的に見たときに

思ったことをブログに書いたのでしたとさw

 

本日はこれまで!

「余計なことを考えるな」という洗脳社会 ~リアルシャドーハウス~

 

オンリーです。

 

突然ですが、このブログを読んでいただいている皆さんは

マンガ・アニメなど好きでしょうか??

 

実はオンリーはアニメ・マンガが昔から好きで

ハマってしまうと、沼にはまってしまう傾向があります。笑

 

最近、とある人から紹介されて

久々にやばい!と思ってしまったマンガ・アニメがあります。

 

2021年に放映され、

今月より2ndシーズンが始まった

 

「シャドーハウス」

 

です。

 

TVアニメ「シャドーハウス」-2nd Season- 公式サイト (shadowshouse-anime.com)

 

 


www.youtube.com

 

「シャドー」という影のような生物が

とある館を占拠し、

 

「シャドー家」という一家を構築し

 

貴族のまねごとを始め、

 

シャドーは1人1体「生き人形」という

人の形をした人形をつけ、

 

生活をしていくというお話です。

 

(本当は生き人形ではないけれど、

ネタバレの為伏せておきますw)

 

最初は主人公のシャドー「ケイト」

 

その生き人形である「エミリコ」

 

のほほんとした同性愛を

題材にした

ストーリーかと思いきや、

 

これはかなりやばい作品だったりします。

 

特に宗教観というのがかなり強く出ており、

 

これを読んでいると現行の宗教団体がやっていることを

 

見事にストーリーの中に上手く組みこめられている

 

そういった物語だったりします。

 

現在マンガはヤングジャンプで何巻かまでは

無料で読むことができます!

(オンリーは近くのネカフェに通い最新話まで読み切りましたw)

 

ヤンジャン!|集英社公式・ジャンプ系青年マンガ誌アプリ (ynjn.jp)

 

さて、なんで今日はこの「シャドーハウス」を紹介し、

 

「余計なことを考えるな」という洗脳社会~リアルシャドーハウス~

 

というタイトルなのか??

 

それは、このシャドーハウスの中で

生き人形の中で染みつけられている教えが

 

「余計なことをかんがえるな」

 

だからです。

生き人形はシャドー家に忠誠を誓わないといけず、

 

疑う心を持つことを禁じられ、

とあるもので洗脳され、

毎日喜び溢れた生活を保障されています。

 

それを象徴させるのが、作中にも出てくる

「お掃除の歌」です。

 

拭けば明日はすすが積もる
すすが積もればまた拭ける
さあ働きましょう
お役に経ちましょう
余計なことは考えない
シャドー家のために
さあ働きましょう
お役に経ちましょう
余計なことは考えない
シャドー家のために

引用:シャドーハウスアニメ2話より

 

 

しかし、現実はどうかといえば、

 

・毎日考える余裕を持たされない業務量をこなし、

 

・食料も最低限の栄養しかとることができないパンのみ。

(シャドーはちゃんとした料理が食べられる)

 

・朝日を浴びることができない部屋+ベットも蓋つき

(夏になると暑くないか??)

 

・仕事ができなくなったり使えなくなったら処分される

 

そして物語の中では

 

「偉大なるおじいさま」という

 

宗教団体の創始者、教祖的存在という黒幕が存在します。

 

このおじいさまのとあるものが入ったとある黒い飲み物を

 

飲ませることで

 

生き人形たちは洗脳され、

 

シャドーハウスに生きることが幸せであると

 

洗脳されていくという、

 

とんでもない物語だったりします。

(ちょっとネタバレしちゃいましたねw)

 

シャドーも洗脳された生き人形たちとともに

生活を過ごすことで

 

シャドーハウスのルールに乗っ取った生活を

自然とこなしていき、

 

館の周りの村も

とあるもので村人を全員洗脳させてしまうという、

 

とんでもない仕組みを構築しているわけですが、

 

これに近いところが存在すれば、

 

現在世の中もある意味「リアルシャドーハウス」になってきている。

 

そういったことをこの作品を読んで感じたのです。

 

この「余計なことを考えるな」

 

実は僕が20数年間

関わり続けてきた「天理教」でも

 

同じような教えというものがありました。

 

それは、「不足をいうな」であったり、

 

「上のいうことは素直に聞きましょう」

 

「進路は自分で決めるものではない。親や上にお伺いを立てて決まるんだ」

 

であったり、

いかにも自分で考えることをやめさせるような

 

そういった間違った教えというものが横行していたのです。

 

法人勤務を終え、

天理教の3か月の修業期間である「修養科」

というところに行った時の話ですが、

 

その修業期間の宿泊機関に「詰所」というものが

天理市内には200か所近くあります。

 

その中の一つの詰所で住んでいた時のことですが

なんとなく違和感を感じたことがありました。

 

周りから聞かれることは

 

「修養科が終わったら大教会に伏せこみしますよね??」

 

(大教会という大きい施設で掃除とか草抜きや

よくわからないおじさま方の運転したりと雑務をこなし、

月給2万円以下で奉仕をするようなところです)

 

「青年ひのきしん隊がちょうどあるから、入隊するよね??」

 

(平たく言えば野郎ばっかりで宿舎に1か月泊まって、

無償の現場作業ばっかり行い、

夜は天理教の修練をちょっとやって宴会ばっかりするやつです。)

 

「その進路は、ちゃんと上の〇〇さんに相談したの??」

(え?そんな誰かに伺いを立てないといけないものなの??と思いましたがw)

 

はなから、これが終われば天理教のどこかにいないといけない。

 

天理教のお偉い人に自分の進む道を決められたり、

相談しないといけないような

同調圧力

 

そういった価値観というものを植え付けられる

これは修養科という修業の期間だけではなく、

 

思えば、高校を卒業後も

 

大学も卒業後も

 

法人勤務を終えた後も周りから聞かれることは

 

同じなんですね。

 

「終わったらどうするの??天理教の中で生きるよね??」

 

逆に

 

「え??そうしないといけないルールなんて存在するの??」

 

て聞き返すと

 

「そういうわけじゃないけど、するのが常識でしょ??」

 

という返されたときは

あまりにも意味不明すぎて

返す言葉もありませんでしたがw

 

自分も無意識にその領域にいる時は

周りにそういったことを言ったり聞いたりしていましたが、

今思えば改めて怖いなと思った出来事の一つです。

 

ある意味、シャドーハウスのように

 

何もわかっていなければそれが「幸せ」

 

という価値観を植え付けられ

 

本来、倫理的にはダメなことが平気になっていく、

そういった感覚というものが植え付けられてしまう

 

しかしその「余計なことを考えてしまい、行動する」ことで

 

教団から鉄槌を下されてしまう。

 

そういった脅迫観念的なものも最終的には精神に

インストールされていくことで、

 

「何も考えないことが一番楽だ」

 

「上のいうことを聞いていれば、俺らは幸せになれる」

 

まさしくこれは、シャドーハウスにも出てくる

 

「余計なことを考えなければ、生き人形は幸せよ」

 

「シャドー家の為に生きていければ、私たちは幸せになれる」

 

そしてこれは天理教に限らず、

現代社会にもあるような風潮でもあったりします。

 

「会社にいれば安定した生活と幸せが保証される」

 

という今では都市伝説のこれだって、同じでしょう。

 

ある意味、仕事で頭をいっぱいにしてしまい

考えることをやめさせて

生かさず殺さずにしておく。

 

考え方一つで変わりますが

 

今の現代社会、どこを見渡しても

 

「リアルシャドーハウス」

がどんどん構築されていたりしています。

 

安部首相の射殺事件が先日ありましたが、

宗教団体は衰退していくでしょう。

 

そういった宗教団体の「シャドーハウス」の衰退

は否めませんが

 

ある種のシャドーハウスは、

世の中のあちこちに転がっています。

 

例えば、

生き人形の朝日が入らないお部屋というのは

 

コロナ禍の「ステイホーム」により拍車をかけ、

朝日を浴びる機会をなくし、

運動不足にも陥らせています。

 

「栄養が最低限しか入っていないパン」というのは

仕事などで忙しくさせ、

 

調理したご飯を食べる機会をなくすことで

コンビニ飯・ファストフードばかり

食べざるおえない文化を作ると似ています。

 

コロナ禍で飲食店の謎の時短営業で

更にファストフード・コンビニ飯を食べさせる

という文化を更に構築させたわけです。

 

そしてストレス発散ができる「お祭り」

「飲み会」などをなくし、

「黒い飲み物」たるもの、

 

今であればスマホの画面上のもので

仮想空間上で楽しむことができ、

 

AVや二次元などを見ることで

性欲も満たされてしまい

 

そういったがんばらなくても

何でも満たされる状況を作り

 

「考えなくても生きることができる」

「余計なことを考える必要がない」

 

そういった「リアルシャドーハウス」文化

というものが

世の中に構築されているということです。

 

宗教嫌いな日本人は多いものの、

自分たちがそういった「シャドーハウス」的な

宗教組織たるものに染まっていることに

 

気づいていないことが

一番やばいなと思うこの頃です。

 

大切なことは一つ。

「余計なことを考える素養を身につけよう」

 

こういう時代だからこそ、

 

今こそ、余計なことを常に考える習慣をつけることが

これからの時代を生き抜く礎になると僕は確信しています。

 

シャドーハウスと真逆の生活ができる空間に

自分の立ち位置を置くこと。

 

作者のソウマトウさんはそういったところを

ストーリーに組み込み、

世の中に訴えかけている部分も

少なからずあるのかなーと思った次第です。

 

本日はこんな感じで!

感想などもお待ちしております。

その行動、本当に「親孝行」なのか??

オンリーです。

 

今日もせっかくなので、

 

とある疑問について話していこうと思います。

 

それは・・・

 

「親孝行」

 

天理教をはじめとする宗教者であったり、

 

一般的な人たちというのは

 

こういうところを大事にする人、多かったりします。

 

僕自身も「親孝行」、

 

親を大事にする気持ちというものは

 

すごく大切だと思いますし、

 

自分自身を何十年も育ててくれた

 

そういった感謝の気持ちを持っているほど、

 

毎日を過ごすことは忘れずにやっていますが、

 

そもそもですよ??

 

「親孝行ってなんですか??」

 

こう聞いたときに返ってくる言葉で

 

違和感を覚えることがあります。

 

「親の言うことを素直に聞くこと」

 

特に天理教ではどこから出てきたかは謎ですが、

 

自分の親のいうことは絶対服従的な、

 

そういった強迫観念(笑)があったりします。

 

これが親レベルで行われているなら

一般家庭の中でも多くあるでしょう。

 

しかし、天理教の場合はもっと謎の「親」があるわけです。

 

そう!

 

「理の親」

 

「理の親」ってなんですか??

 

ていうか「理の親」ってどこから作られた言葉なんでしょうか??

 

僕も理解できていなかったりしますが、

 

これ、

 

超あいまいですw。

 

これについては、別のブログでわかりやすく解説した記事がありました。

 

理の親ってよく言うけど、そんな教理あるの? | あれもこれも (aremocoremo.info)

 

この記事の中によると、

 

「人間と人間、教会と教会に高い低いの序列があって、このことを「順序の理」という。こうした高い低いの序列において上に立つものを「理の親」というみたいな、」

 

とまあ、平たく言えば、人や教団の中に

階級がちゃんとありますよということですね。

 

んじゃあ天理教信者にとっての理の親って誰のことを指すのか??

 

ざっくりいえば

 

「本部の上層部の人間」

 

大教会長

 

「自分の上の教会の会長共」

 

がわかりやすいですね。

 

こういう人たちは俗にいう「理の親」なので、

 

「ちゃんということを聞きましょう」

 

という対象に入るわけです。

 

でもねー、今日はここにハンマーをぶち叩いていきましょう!

 

そもそもですよ??

 

「何で先祖や親が救われたという過去があったとして、

自分らが普段関わらない関係のない人たちのいうことを聞かないといけないのか??」

 

ということですよ。

 

だって関係ないじゃないですか??

昔祖父や祖母はお世話になったかもしれない。

 

それはその通り。

 

でも今は??

 

自分たちに何をしてくれているのでしょうか??

 

何か行事があれば、人を駆り出して

 

「※ひのきしん」という呪いの言霊を乱用し

 

天理教では自分の生かされている体に感謝をする奉仕の行為のことを「ひのきしん」と呼ぶ。

 

無償で働かせれば、

(そもそもひのきしんは無償が前提でやるものではない)

 

江戸幕府時代の大名たちの参勤交代のような

 

「毎月大教会や本部に参拝来てください!自費でね♪」

 

をさせたり、

 

建物が老朽化したら、

「皆さん、大教会を直したいので寄付やお供えをしてください

1教会何〇万円で!」

 

的なことをしたり、

 

「毎月お供えを上級にしてくださいね。一口〇万円で」

 

普通に考えればこれは異常だと思うんですね。

 

だって先祖や親世代は確かに恩があったかもしれない。

 

でもそれをいつまで続けさせるの??

 

ていうよくわからない本当に意味不明な

 

「親孝行」になっちゃいますよね。

 

かくいうオンリー家もなかなかやっちゃっていました。

 

僕自身は天理教をやめているとはいえど、

 

親はまだ教会長をしているわけですから

 

その辺は今でもそういった謎の上に尽くす制度は

 

周りにも迷惑をかけるからやめておけと言いますが、

 

数十年前は毎月数十万円も上にお供えをしていたそうです。

 

兄弟内でその話をした時に

 

「それ、えぐい固定費やんw」

 

「むしろそのお金を毎月自己投資に回した方が

絶対に教会うんぬん、周りの為になるやん」

 

そういった話題でもちきったほどですw

 

僕もそれだけ毎月余裕があるんだったらそこに

リソースをかけた方が、先にもつながると思ったほどです。

 

逆を言うとそれが教団の狙いでもあるわけですねー。

 

教えにもあります「貧に落ちきれ」

 

こうする方が教団として統制がとりやすいからですね。

 

お金もない・時間もない

 

こういった生かさず殺さずにする方が都合がよかったんでしょうね。

 

とはいえ、本来そんな教えなのか??といえばこれは

 

Noです。

 

上層部などは原点にある「おさしづ」に出てきているから

というかと思いますが、

 

この「理の親」についてでている「おさしづ」は明治32年のもの。

 

つまり、

 

「教祖が言ったことではない」

 

正確には本席と呼ばれる

「教祖」の代わりとなる人物。

(とはいえ、かなり教祖に心酔していた人物の為、元々偏りがある)

 

その方が口頭でいった言葉であり、

おさしづ自体がそもそも

本人直筆でもないため、正直かなり怪しいにおいがします。

 

誰かの都合がいいように編纂されている可能性だってあるということです。

 

これは「教典」にしても「教祖傳」にしても同じことが言えます。

 

書いたのは本人でもないわけですから、

歴史は美化されているのと同じように

 

必ず教団でどこかしらは美化しているはずです。

 

「上のいうことや親の言うことは素直に聞きましょう」

 

これは僕自身は一番やってはいけないことだと

断言できます。

 

というのも、

僕も個人事業で現在仕事をしている中で

 

様々な経営者の方や事業されている方と

お話をする機会がありますが、

 

自分の人生をより変化させていく為に、

皆さんがどこに重きをおいてやっているのか??

 

をお聞きするようにしていますが、

 

そういった人生の転機に来ているときに

一番してはならないこと。

 

それは

 

「親、もしくはそれに該当する人に相談すること」

 

だからです。

 

もし自分の親が孔子ブッダのような教祖とかであるなら別ですがw

 

基本的に親やそれに該当する人に相談するとどうなるのか??

 

答えが決まっているからです。

 

その変化しようと思っている領域に

 

ブレーキをかけることを言うことしかできない

 

レベルだからです。

 

例えば仮に「理の親」として、

 

教会長しかやったことがない教会長に自分の進路などを相談しても

 

返ってくる回答は「教会長」レベルの回答しか返ってきません。

 

天理の学校にいけなり、

教会に伏せこむか本部勤務しろなり、

 

そういった狭い道筋の回答しか返ってこないわけです。

 

自分が事業を起こすであったり、

大切な相談を持ち掛ける時は決まって、

 

「自分がやろうとしていることの領域にいる人たち」

 

に相談をして、意見を聞いて行動した方が手っ取り早いんですね。

 

でも最終的にそれでうまくいった方が

 

親にも孝行できれば、

 

周りも幸せにすることができるわけです。

 

親の言いなりになったらいい人生になるのか??

 

そんなわけがありません。

 

むしろ逆ですよね??

 

子供のわがままを受け入れて応援してくれる親こそ、

 

本当に「いい親」なのではないでしょうか??

 

ある種、そういった親を持っている皆様は

 

今後は「子」が「親」を教育していく時代なのかもしれません。

 

僕は、「親」を教育できるだけの教養や

素養を身につけることに

 

今後も精進したいなーとも思うわけですね。

 

それによって、本当の「親孝行」になるのであれば、

それが一番ベストだと思うほどです。

 

本日はここまで!

宗教や会社に依存するのはやばい

 

オンリーです

 

前回は天理教から離れようと思った理由について

記事を書きましたが、

 

そもそも宗教や会社に依存すること自体が

今の世の中を生きていく上でやばいなーと

 

つくづく痛感しています

 

特に20代・30代で生きている人たちほど、

そういったところに依存して生きていくのは

もちろんのこと、

 

年功序列社会などの中で、

人生を誰かの言いなりになって生きていく

 

これに危険度があることは明白だったりします

 

僕も家が天理教という特殊な家庭であることはもちろん、

 

大学卒業後の宗教法人勤務にしても、

 

その後バイトなどを経て働いた経験を踏まえても

 

どこかしらに言いなりで生きていくほど、

自分自身の人生を不幸にしている

要因になりかねないわけです

 

特にそういった環境にいる人たちは

 

「苦労することが当たり前」

 

であったり

 

「自分の人生はもう決まっている」

 

そういったことを周りの環境から潜在的

刷り込まれていることが多く、

 

自分はその領域から抜け出すことができない

 

本気でそう思ってしまう人が世の中には五万といます

 

宗教から抜け出せない・・・

 

会社を辞められない・・・

 

団体や組織を抜けることはもうできない・・・

 

その団体や組織から刷り込まれることで

 

自分自身の人生は泥沼と化してくる

 

もちろんそれで幸せならいいのですが、

 

半分以上の人はそう思っていない状況だったりもします

 

こんな時代だからこそ、

 

自分自身で一歩踏み出す行為を是非してほしい

 

そして、何事も疑って考える力を身につけることが大切で、

 

天理教だって、会社だって、

 

本当にそのルールが正しいものなのか??

教えが本当に歴史を通してあっているものなのか??

 

それを自分自身の解釈を作った上で、

合っているかどうか吟味していく

 

僕は残念ながらそのほかの思想を

学んだりした中で分かったことは

 

天理教が全てではない」

 

「歴史は美化されているからこそ、現存する教えや歴史が絶対に正しいとは限らない」

 

「そもそも、残っている記録ですら、本当に起こっていないことだってあり得、

誰かの利権や陰謀によって残っている記録だってあっておかしくない」

 

そういったことをまじまじとここ数年で感じました

 

もちろん、僕が考えている天理教云々、宗教や思想の像というのも

 

確実に正しいわけではありません

 

しかし、何が正しいのか正しくないのかを考えるよりも、

 

「その上で今をどう生きるか??」

 

を考えていくことが大切だと思います

 

そういった意味で、一つのことに依存して生きるよりも

 

もっと広い視野で、自由に生きていく

 

そういった毎日をみなさんが過ごせたら嬉しいなと思うこの頃です

 

本日は日記チックになりましたが、ここまで!

僕が天理教から離れようと思った理由

 

オンリーです。

 

僕自身は家が天理教という宗教をやっており、

 

僕自身も天理教の教会後継者という

 

俗にいう訳ありなやつ

 

なんですが・・・笑

 

そんなこんな、個人事業主フリーランス)になってから、

 

ほぼほぼ天理教関係の友達との

付き合いも自然となくなり、

 

今は実家の祭典にすら顔を出さなくなり、

 

天理にも仕事がない限りはいくこともなくなりました。

(4,5年前は週1で行ってた時が懐かしいw)

 

そんなこんな、何故僕が天理教から離れようと思ったのか??

 

実際僕はどちらかというかと、

4,5年前まではれっきとしたバリ天と呼ばれる人間でした。

 

※バリ天とは、ばりばり天理教の略し言葉ですw

 

高校も大学も天理

 

卒業後は天理教に勤務を数年した後、

 

天理教の修養科という3か月の修行も経て

地元に戻り、

 

自分自身も天理教の教会長後継者として、

本気で陽気ぐらしを目指したい!

 

そう思った時期が実はありましたw

(周りの友達も俗にいう天理教しかいなかった)

 

んじゃあそんな僕が何故、

 

今は天理教から離れているのか??

 

せっかくなので記事にしちゃえば、

同じように天理教や他の宗教などで

悩んでいる同世代や下の世代の

教訓になるかなーと思い発信していこうと思います。

 

まあ、はっきり言うと

 

天理教という教団に未来を感じない

 

が一番の理由なんですが、、

 

先に言うておきますが、

僕は天理教の教えや信仰している人を否定したくて

このブログをやっているわけではありません。

 

ある種、自分自身が勉強してきたことや、

俯瞰的に見たうえで現実的な意見を踏まえたうえで

発信などをしています。

(批判や愚痴などを言うのは僕も違うと思うので)

 

ただ、これは違うんじゃないか??本当にそうなのか??

そういった問題提起も兼ねて発信をしているということ、

ご了承いただければ幸いです!

 

話を戻します。

天理教に未来を感じない

 

実はこれは天理教に限りません。

 

大きく言えば日本の政治組織や

地方自治体にしても、

大企業にしても、

その他の宗教団体にしても

はっきり言えば今、大きな組織というのは

 

どこも未来がない状況だったりもします。

 

とはいえ、今日は天理教という宗教に未来を感じないからこそ、

実家の宗教を離れているので、

それを重きに書いていきます。

 

何故未来を感じないのか??

大きく理由は3つあります。

 

1,教団の仕組みが教えとズレている

 

まあ一番は間違いなくこれでしょう。

「世界いちれつみな兄弟」

「陽気ぐらし世界の実現」

「心ひとつが天の理」

 

こういったキレイごとのような言葉は

教えの中になんぼでもありますが、

 

そんな言葉の中に潜む

 

「階級制度(ヒエラルキー)」

教会制度という謎の系統と呼ばれるもの

大教会と分教会、上級や末端など、

 

一体いつの時代なんだろう??という

決まりが多くあったりするんですね。

 

例えば、こういったどこから出てきたかわからない決まりがあります。

 

「上のいうことは素直にはいと従う」

 

これってめっちゃ矛盾しているなーと

僕はこの言葉聞いた時から違和感を覚えていて

 

「素直にはい!ていわないといけない時点でそれもはや素直じゃないから」

 

て僕は率直に思ったんですよね。

 

だってそうじゃないですか??

「素直」って自分自身の意見を率直に言うから「素直」なのであって、

 

それを言わされている時点で「素直」でも何でもないわけです。

 

ある種、下の者を服従するうえで上層部が都合のいいように作った

戒律チックなものだなと思ったりするわけです。

 

 

ある意味「心次第が天の理」に反している教えが、

教団内で横行しているといっても過言ではないでしょう。

 

それ以外にもお供えの強要にしてももちろんですが、

(これは正味宗教団体どこでもある)

 

教会に関わるごとに立場を増やされ、

会議や行事を都合をつけて参加するようにと言われ、

教会関係の御用で忙殺し、

空いた時間に食う為にバイトをする毎日。

(貧乏まっしぐらですね)

 

末端や下の教会の子供は

上からのお告げなどで天理の学校に入らされるわけですが、

 

本部や上の子供は国公立や天理よりも偏差値がいい学校ですね。

そういうところに行かせるなど、

 

ある意味「格差」というものを家系で世襲している。

 

実は天理教は教団では「家柄」ですべて決まると言っても過言ではないでしょう。

 

末端の子供は末端の信者にしかなれません。

 

どれだけ優秀だろうが、教団内では優遇されることはなく、

いい家柄であれば、出世も楽勝です。笑

(とはいっても、衰退している教団で出世したところで先は見えていますが)

 

一番謎なのは、学校で同級生や後輩だった人間を

立場が変わると「様」や「先生」をつけなければいけないところでしょう。

 

これは違和感ですねw

数多くのセミナー講師をやっていたり、

何か芸をもっていたりするような人に「先生」と呼ぶのは

あるべきものだと思いますが、

 

ただただ家柄で成り上がった人に「先生」「様」付けは

はっきり言って謎です。

 

話の情報密度はTwitterのツイートレベルです。

 

そんなTwitterのツイートレベルのお話にお礼を包む・・・

やばくないですか??

 

僕が離れようと思った決め手はこれでした。

 

 

「お前も自分のことばっかりせず、

教会や上のことやっておけば絶対に幸せになれるから、

早く今やっていることをやめて教会に尽くせ」

 

 

上の世代の方は恐らく死ぬまでそれでいけるでしょう。

 

しかし、当時20代だった僕からすれば、

そんなことやったら自分の人生が破滅するのが目に見えてしまいました。

 

教団の歯車になって人生積むのがオチだなと思ったわけです。

 

教理については、教祖伝にしても、おさしづにしても

はっきり言えば謎も多かったりします。

 

というのも、

 

「歴史は美化される」

 

改竄(かいざん)も少なからずされているからです。

いや、むしろされていなければおかしいわけですから。

(これについては長くなるので、別の機会に話せたらと思います。)

 

2,上世代と若年世代で分離している

 

これ面白いところですが、

 

実は教団内部では

 

大体50~70代の上層部及び、上世代の人間と

20~40代の若年世代の人間で

動きが分離していたりします。

 

もちろん、天理教全体を動かしているのは

上層部や上世代ではあるものの、

 

水面下では時期トップ率いる青年会と呼ばれる組織で

上の世代の方向とは全く真逆のことを

推進していたりもしています。

 

これはまあ面白い動きだったりもしますが、

反面、これによる組織の混沌化が進んでいることも否めないところでしょう。

 

上世代はこれまでやってきたことを踏襲したい「保守派」

若年世代は、新しいことを取り入れたい「リベラル派」

(とはいっても、そこまでリベラルでもない)

 

どっちにせよ、恐らくこの拮抗は続くでしょう。

上は自分らがひくまでは安泰でいたいでしょう。

 

下はもっと変えていきたいけど、上の邪魔が入ったり、

気を使う毎日。

 

これは恐らくどこでもあるあるな話なわけで、

僕もとあることで変えていこう!と動いたものの、

 

「これは無理だわ!」

 

と察して、その世界とは違う領域で仕事をしたり、

生きていくことを選びました。

 

はっきりいって、分離していく分だけ、

組織のねじれが広がっていくのは明白です。

 

そっちよりも志がある若い世代で立ち上がって

別の教団作るなり(異端と呼ばれることは覚悟してになりますがw)

起業するなりして

新しいコミュニティ作った方が

今の教団以上によりよいものが

作れるんじゃないかなーと思うほどです。

 

3,そもそも宗教が日本では衰退産業

 

そしてもう一つがこれですね。

 

そもそも、宗教が衰退産業ということは明白です。

 

この30年間で仏教系の信者が4000万人減少しているように、

 

天理教も教会のお返しといって、

法人として活動不能な教会が多くありました。

 

宗教自体をやっている人間が高齢者に多く、

 

NHKの調査でも、若い世代ほど宗教離れが著しいことを論文にも

出していました。

https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190401_7.pdf

 

僕もそうですが、

宗教をやる意義って今の時代

特になくなってきているかと思います。

 

むしろそちらより重要視したいことって、

天理教にしても、神道にしても、仏教にしても

 

どういった思想であって、

それを日常生活にどう生かしていくか??

 

を考えることが大切だなと思うわけです。

 

その上で天理教が目指す「陽気ぐらし」であったり、

仏教が目指す「極楽浄土」「成仏」することにしても、

 

キリスト教が目指す「人類の救済」

PLが目指す「世界平和」などなど、

 

そこにいかに近づき、最終的に求めること。

 

 

「人類の幸せの探求」

 

それを宗教入る入らないとか関係なく、

周りの人と共有していくことが大切だということです。

 

はっきりいえば、

天理教に入らないと幸せになれないとか、

そういったことは絶対ないわけです。

 

僕らはどこの宗教や組織に属するかよりも、

 

いかに周りの人らやその他大勢の人と

よりよい生活をしていけるか??

 

ここにリソースを注入するべきです。

 

そういった領域を僕自身も作っていきたい。

 

宗教がどうとかそんなことは正直どうでもいい

 

新しい領域・場・コミュニティを形成していく。

 

そのような空間を構築していきたいこの頃です。

 

是非、そんな志の人とお会いできること、楽しみにしております。

 

本日はここまで!

 

世の中は「無理ゲー」だけど、自分の人生は「無理ゲー」ではない

 

オンリーです。

 

そういえばこのブログでは自分の

仕事の話をしたことがないので、

 

今日はせっかくなのでそんな話をしていこうかと。笑

 

(タイトルに関係ないじゃーんて思うかもですが、

めっちゃ大ありです!)

 

僕自身は現在個人でフリーランスとして活動しています。

 

内容はあんまり大々的には今は言えないのですが

(そのうち顔出し云々暴露するときがくるかもw)

 

今やっている仕事内容としては

 

YouTube・ブログ・SNS等での情報発信

・オンラインでの動画教材の制作

・個人・団体・オンラインでとあるものの教育・指導

(教室も数か所開講しています)

・とあるものの体験事業の実施

・コミュニティや自分自身が活動するチームの形成・運営

・イベント企画・集客

 

こういったことを中心に個人で仕事にして、

今はそこそこ余裕でそれだけで

食えるレベルまで徐々に仕事に発展しています。

 

(とはいえ、まだまだ発展途上で、

これからもっと事業展開を現状進めているところですが)

 

事業として独立し始めたのは今から2年前の4月。

 

忘れもしない

コロナでの緊急事態宣言が発令されたあの時です。笑

 

フリーランスになった途端、

 

仕事がすべてぶっ飛びました。笑

 

その話はまたの機会にするとして、

 

今日話したいのは

 

「世の中は「無理ゲー」だけど、自分の人生は無理ゲーではない」

 

というところです。

 

はっきり言うと、僕が個人でやっている業種というのは

 

単刀直入に言うと

 

絶滅危惧種

 

です。笑

 

向こう20年でこれに関わっている

団体や法人というのは

 

少子高齢化に伴い、

やっている人たちの高齢化が進む中、

組織の仕組みの腐敗で

若手がいない状態というのが

慢性的に起こっています。

 

(僕が見たところ、20年後にはほとんどがなくなるか

かなり衰退すると見ています)

 

そういったものを始めようと志したのは当時

大学生の時。

 

実は小学生の頃から

今の仕事に関わることをしていて、

この情報発信という部分についても、

 

小学校時代に趣味で制作していた

ホームページや掲示板を自分で運営していた

経験があった故、

 

その分野とかけあわせて使って

仕事にしていたりもするわけですが、

 

大学3年までは、今の仕事のこととは離れ、

別の学生の慈善サークルをやっていました。

(詳しくは自己紹介にて。)

 

nantenhito.hateblo.jp

 

 

大学4年の時に、ふと思ったことがありました。

 

「僕にはやっぱりこれしかない」

 

頭の中ではふとそのことを思い出し、

大学4年生になってそれに再び

向き合うことになりました。

 

とはいえ、それを仕事にする方法は

全く浮かび上がらないわけですが、

それでもそれを仕事にすると思い込んでいた自分が

 

この後からずーっと続くわけです。

 

もちろん、

周りにもそんなことを仕事にしている人は

いなければ、

 

むしろ周りに言っても

絶対理解されないのはわかっていたので、

誰にも言ったことがありませんでした。

(自分の心の中で何年もしまっていたという感じです)

 

それでも卒業して法人に4年間勤務し、

地元に帰ってからも夜勤をしたり、

バイトをしたり、

 

それを仕事にしていくことを目標に

ずーっと諦めずに追い続けました。

 

もちろん、そんな状況でやっていれば、

家は天理教という宗教をやっている家系です。

周りの天理教関係の

年寄りのおっさんたちには言われるわけです。

 

「そんなことやってないで、教会の活動だけに専念しろ」

 

 

「上のいうことだけ聞いていたら安泰だから、

その活動はほどほどにしろよ」

 

天理教はどこかしら

本来の宗教の教えとは違う「組織」の教えが

混在していたりします。

最たる例が「上のいうことを素直にはいはい聞く」

素直の意味をはき違えていますw)

 

もちろん、その場では「わかりましたー」と言いながら、

冗談半分で聞いていたので、

鵜呑みにするわけはなく、

 

「これは自分がいる環境とは違うな」

 

そう思うことも多くなり、そういった

おっさんたちの集まりには

顔を出さなくなりました。

 

実はそういったところも

最初関わっていたのは、

仕事につながる可能性もあったことも

もちろんですが

 

「組織を小さいところから変えていこう」

 

という気持ちが自分の中では少なからずありました。

 

しかし、だんだんと

自分の仕事の業種の仕組みにしても、

家の宗教の仕組みしてもわかっていく毎に、

自分の中で大きく感じたことがありました。

 

「あ・・・これはもう無理ゲーだわ・・・」

 

そして当時やっていたバイトなどに

関してもわかったことがありました。

 

「バイトをしながら今の仕事を続けても、

バイトをしている時点で、先が見えてこない。」

 

バイトというのは基本的に「時給制」

これは会社員にしても、

自分の元気な体を

会社に売ってお金にするのは変わりないわけで

「自分の元気な体を使って、

時間を売ってお金がもらえる」という仕組みに他なりません。

(宗教法人勤務なんかも、この本質は変わらないですね。)

 

つまり、それだけの為にバイトをしていることに

途中から大きな違和感を持つわけです。

 

「俺、このままいくと一生このポジションから抜け出せないわ・・・」

 

「むしろこの時間、自分の事業の為に使った方がもっと効率よくならないか??」

 

「だってバイトは会社の店を回すだけやけど、

自分の事業は金にはならずとも、自分の糧になるよな??」

 

そういった思いが強くなり、

緊急事態宣言が出る2か月前に

バイト先に辞めることを宣言し、

 

フリーランスの道へと歩むことになります。

一時期は貯蓄がつきる

手前までやばいことにはなったものの、

 

「最悪貯蓄つきたらまたバイトから出直そう」

 

その自分の中で決めた取り決めが功を奏し、

今もバイトに出直すことはなく、

フリーランスとして活動ができているわけです。

 

フリーランスになってよかったと思うことは、

 

「自分の人生は自分で決めることができる」

 

と思えたことと反面、

 

「自分でどうにかしない限り、誰もどうにもしてくれない」

 

という二つの視点を持つことができたことです。

 

会社や宗教に依存してしまうと、

ある種「自己」というものが

薄れていきます。

 

「会社が自分を面倒見てくれる」

「宗教を信じていたら幸せに生きることができる」

「周りがこうやっているから自分もこうしよう」

 

上世代の人は潜在的に、

無意識にこう思われている方が

今でも多く、

知り合いの天理教の人なんかでもこういった人が

多いなーとも感じます。

 

特にコロナ禍においては、

政治にしても医療にしても何でもそうですが、

「自分で考えない人」

多くなっているなと感じることが多くなりました。

 

テレビやネットニュースの

情報を鵜呑みにしている人が多くなり、

 

ちゃんと本質的なことを考えずに

人に流されて行動している人が増えている。

 

フリーランスになってからは

そういった自分の視点が大きく変わったことも収穫でした。

 

世の中ははっきり言ってどんどん

 

「無理ゲー」に突き進んでいます。

 

とはいえ、自分の人生は自分で何とでも変えることができます。

 

「無理ゲー」だと思えば「無理ゲー」な人生になるし、

「無理ゲー」ではないと思えば、「無理ゲー」ではなく、

むしろ「ベストゲーム」にできてしまうことだって可能です。

 

特に日本においては、生活保護などの社会保障

他国に比べても充実していますし、

 

働き口にしても変なことしなくても

今は人手不足なども進み、

すぐにどこでも働ける環境が整っています。

 

だからこそ、

自分の人生を自分で変幻自在に変えることができる。

 

親がどうとか、周りがどうとか、

家がどうとか、

そんなことはどうだっていい。

 

変わりたい自分の場をいかに作っていくか??

 

それによって自分の人生をいい方向へ形成することができ、

自分がいい方向へ行くと、自然と周りもいい方向へ導き合える

仲間と出会えます。

 

僕自身も、フリーランスでそこそこいけているものの、

 

まだまだそういった「場」を作る最中だったりします。

 

もっと新たな「場」「ステージ」を作れるように、

今後も共に見てくださっている皆様と精進できたらと思います。

 

本日はここまで!

天理教や宗教者がネットワークビジネスにハマりやすい理由

こんにちは。

 

先日マッチングアプリを使っての残酷な結果に悲観し、

 

天理教の教会長後継者を辞退したオンリーです。笑

 

そんな記事はこちら

 

nantenhito.hateblo.jp

 

そんなこんな、本日は天理教などの宗教者の家庭の若者にはあるあるの

 

天理教信者がネットワークビジネスにハマりやすい理由」

 

について記事を書いてみようと思いますw

 

いや、これマジでよくあるあるっていうか・・・

 

僕はもうかかわりがある人の中に天理教信者がほとんどいないので

 

周りにはあまりいないのですが

 

天理教の家庭で育った若い世代って

 

ネットワークビジネスにどっぷりはまりやすいんです。笑

 

これはまじで。

 

そもそもネットワークビジネスってなんなのか??

 

ここから話していきましょう。

 

そもそもネットワークビジネスとは

 

口コミなどによって商品を広げていく

 

「マルチ・レベル・マーケティングという仕組みを

 

用いたビジネスで、

 

平たく言えば、友達から友達へモノを売りつけたり、

 

勧誘したりするビジネスのことですね。

 

これが何が悪いの??って思う方もいますが、

 

商品がいいか悪いかは別として

 

問題は「仕組み」です。

 

これって実はある種のマルチ商法であったり、

 

ねずみ講

 

そして組織的な天理教と全く同じ仕組みになっています。

 

ネットワークビジネスの勧誘員の人たちは、

ここの違いをしっかりとマニュアルで延々と説明してきますが、本質は同じです。)

 

どういうことかは後述していきますが、

 

はっきり言うと天理教信者はこの手のものに

 

カモにされやすい

 

と言ってしまえば

 

わかりやすいでしょうか??

 

ちなみにネットワークビジネスで有名な会社といえば

 

「ア〇ウェー」「ティーン〇〇ャパン」「三〇商事」「ニュー〇キン」

 

皆さんの中でも聞いたことがある会社は数か所あるのではないでしょうか??

 

そして大体何を売っているのか??といわれれば

 

「美容品」

 

が多かったりします。

 

特に天理教信者の若い女性に多くどっぷりはまってしまう傾向が強いのが

 

ネットワークビジネスです。

 

では、何故天理教信者とかがネットワークビジネスにはまりやすいのか??

 

解説していきたいと思います。

 

そして最後の方には

 

知り合いや身内がはまってしまった時や

 

自分自身が勧誘を受けたときの対処法も紹介しようと思います。

 

1,組織の形態が全く同じ

まず一つ目に上げられるのはやはり、

 

「組織の形態が全く同じ」

 

というところにあります。

 

前回のブログで宗教団体が抱えている闇はどこも

 

似たり寄ったりという記事でも紹介しましたが

 

nantenhito.hateblo.jp

 

nantenhito.hateblo.jp

 

基本的に天理教の組織というのは「ピラミッド構造」になっています。

 

一番上が天理教教会本部

 

その下に50か所以上の教会を統括する「大教会」と呼ばれる組織があり、

 

その下に「分教会」が枝分かれにあります。

 

ネットワークビジネスも基本的には一番上に教祖的なのがいれば、

 

下に分教会が枝分かれするような構造と立ち位置の人がわんさかいるわけです。

 

この時点で、

 

天理教という教団も組織的にどれだけやばいところなのかが

 

気づく人もいるでしょう。

(教理がいいか悪いかは別の話ですよ!)

 

そう!実は教団とネットワークビジネスの仕組みは全く一緒なんですよ。

 

平たく言えば

 

「上が一番お金がどっぷり入ってきて、末端にいる人間は一生超貧乏生活を強いられる」

 

こういう仕組みになっているわけです。

 

つまり、一番下から始まっている人というのは、

 

自分自身に部下的なものを作らない限りは一生貧乏です。

 

特にはまりやすいのが天理教の末端の教会あたりにいる層の

 

信者家庭の女性に多いわけです。

 

上手い話に乗せられているだけで、

 

自分自身は天理教に関わるよりいい状態になっていると思い込んでいますが、

 

実際は同じような環境に「鞍替え」しているだけです。

 

とはいえ、これにはまってしまう理由もあります。

 

それが次の2に該当していくわけです。

 

2,ノリや空気感が天理教の学生会と似ているから

 

天理教には「学生会」という、

 

高校・大学の間に学生たちで集うコミュニティが

 

教会内や都道府県の中で存在します。

 

この学生会、僕も学生時代はどっぷりはまっていたのですが、

 

特にネットワークビジネスみたいにお金を動かすこともなければ、

 

そこまで宗教活動をしているって感覚もありません。

 

あって「春学」と呼ばれるイベントで、

天理教のトップの話を一時間延々と聞かされるくらいです。

(いや、これだけで一般的にはやばいw)

 

とはいえ、一つの「エンタメ」を楽しむくらいでやっていれば、

 

そこそこ面白いものです。

 

ネットの掲示板では、学生会は「男女の合コンの場」と書かれていますが、

本当にそこにいけば出会いは困らないってくらいパラダイスです。笑

(これは誤解を招くかもですが)

 

僕はこの「合コンの場」のおかげで、

大学時代に彼女を作れたり

女友達も多かったりと学生時代出会いには全く困りませんでした。

 

みんなで一体感をもって行事や会活動をやっていくというのは、

ある種学生時代の思い出だったりするわけですが・・・

 

しかし、

 

こういう環境にいたおかげでネットワークビジネスにはまりやすくなるわけですねー

 

簡単に言えば「うまい話を信じ込んでしまう」スキルが身についてしまえば、

 

「知り合い同士で群れる習性ができあがっているから」が大きいです。

 

はっきりいえば、「主体性がない」からこそ

同じレベルの人間同士で群れていく。

 

「みんなでやったら怖くない」的な価値観が大きく出てくるため

 

ハマる人が多いのも仕方なかったりするわけです。

 

実際僕が学生を終えてからネットワークビジネス

 

何件も勧誘を受けましたが

 

勧誘をしてきた人らというのは決まって「学生会」出身者でしたw

(その人らとは金輪際関わっていません)

 

僕は当時はリテラシーが低かったとはいえど、

 

化粧品や美容用品には全く興味がなかったので断りましたが、

 

まあ、ハマるのも仕方ないですねw

 

3,そもそも天理教の家庭は「お金の知識」がなさすぎるから

 

そもそも、学校教育で全く「お金」の教育がないこと自体が問題だったりもしますが、

 

「天理」という環境においては、その倍以上ないと思う方がいいでしょう。

 

なんでお金の知識がないかといえば、

 

天理教家庭は「貧乏」だからです。

 

世帯年収が200万以下の家庭が多く、

 

子供に対しての投資がされていないことが大きく上げられます。

 

高校や大学も「天理」のつく学校に通い、

 

価値観も教養もその程度の人間ばかりになり、

 

卒業後は天理教勤務かどこかしらの教会に「伏せこみ」という名の

 

無償に近い労働を強いられます。

 

要は、「勉強しない人」「上のいうことだけはいはいと聞くイエスマン

などを生成した大人を生産するおかげで、

 

お金に関する教養にしても、それ以外の知識も全くない人らが作り上げられます。

 

そうなれば、基本親から子にかけて毎度毎度ラットレースが繰り広げられ

 

子供世代はそんな家庭の貧乏な環境を変えようとした結果が、

 

ネットワークビジネスにはまってしまうというわけです。

(変わっているようで本質は全く変わっていないんだけど)

 

たちが悪いのは、ネットワークビジネスやっている人たちって

 

中途半端なお金の知識を持っていることもそうですが、

 

宗教をやっているときと同じで

 

「誰かの為に」と思って本気で信じ込んでやってしまっていることにも

 

問題があります。

 

考えていることは「利他」なのかもしれない。

 

でもそれが与えられている立場の人間からすれば迷惑になる

 

いわゆる「利他」のつもりでやっている

 

「利己」になっていることもしばしばあります。

 

知り合いや身内がはまってしまった時

 

んで、ここからが本題ですね!

 

知り合いや身内がはまってしまった時はどうすればいいのか??

 

これは正直、めちゃくちゃ難しい問題です。

 

何故かといえば

 

僕自身も、身内ではまっているのが約1名います・・・・笑

 

まじで・・・これは・・・

 

とはいえ、一つだけ言えることは

 

無理に辞めさせるのははっきりいって逆効果です。

 

本人は本当にいいと思ってやってしまっている故、

 

それを無理にやめさせようとすると確実に反発が起こります。

 

僕もその身内からは数年前にセミナーにタダで連れていかれたこともあれば

 

勧誘されたり、商品をもらったこともあります。

(商品はもらうだけもらって、数日後に捨てました。)

 

ただ、セミナーの内容を聞いたときにどこかしらに印象操作がありました。

 

「年収〇〇万円稼げなければだめ!」

 

とか

 

「フリーターやワーキングプアとかは論外」

 

何かしら物事を善悪でとらえ、

 

セミナー会場にいる全員に煽りの空気を与えさせ、

 

言っていることはわかるけども、

 

すべてが煽りに聞こえてしまうことに違和感をもったことを覚えています。

 

ちなみに僕がそこに惹かれなかった理由は何か??といえば

 

セミナー会場に自分にタイプな女性がいなかった」

 

なんですが(自分の人間性がゆがんでいることがばれる)

 

とはいっても、

 

承認欲求が強い人・人生に劣等感を持っている人が

 

はまりやすい性質上は仕方ないかもしれません。

 

前回のマッチングアプリの話でもありましたが、

 

こういった人たちはそういったネットワークビジネスの会社の

 

養分になってしまうことは仕方ないことでしょう。

 

そのからくりにいつ気づくかはわかりません。

 

とはいえ、いかに気づいたもらえるかを考えることが大事だといいざる負えません。

 

ちなみに知り合いなどでいるレベルなら

 

「距離を置く」で十分です。

 

世の中的には「関係を切れ」とか「かかわりを切れ」とかいう風潮もありますが、

 

それをやった後の代償は大きいので、

 

無理に切る必要はないと僕は思います。

 

関わる頻度を変えていく。

 

そして自分自身の環境を変えていければいいわけです。

 

これは宗教と関わることも同じです。完全に縁を切るとかではなく、

 

関わる頻度を徐々に減らして最終的には「0」に近づけていけばいいんです。

 

天理教教会後継者を辞退の話にしても、

 

2年のうちに徐々に関わる頻度を減らして

 

「0」に近づけた結果にすぎません。

 

そしてその人との縁ができる領域に達したら、

 

また縁が戻ることだってあります。

 

要は、

 

長い目でみていきましょうってことですね。笑

 

僕自身は身内もそんな感じで関わっています。

 

別にやめろともいわなければ、

 

肯定も否定もしません。

 

でもそのビジネスを別の身内を巻き込んだりすることになるときは

 

物を申すことになることにはなるかもしれませんが・・・

 

というわけで、

 

本日は天理教や宗教者がネットワークビジネスにハマりやすい理由という

 

テーマで書かせていただきました!

 

感想などもコメントでお待ちしております!

 

それではまた♪

 

ここからは余談です。

 

ネットワークビジネスをやっている人って、

 

謎に高級そうなところに旅行行っている姿や

 

いい車に乗っていたり、

 

海外旅行しまくっている写真がめっちゃあげられてきますが

 

あれってどうやら「見せかけ」でやっているのは知っていますか??

マルチ商法で勤めていた人の本を読むと裏話が書かれていました)

 

「ちゃんと儲かってますよ!」ていうアピールをするようにできているのだとか・・・

 

セミナー講師するような人はサラリーマンの月収と同じか少ないくらい、

 

月収60万程度稼いでいる人らも、「見栄をはる」為に手持ちにお金がのこらないのだとか・・・

 

まあ信じるか信じないかはあなた次第ですね!笑