オンリーワン@脱天理教教会後継者ブログ

脱天理教教会長後継者等変わった経歴の30代が思想・哲学・生き方を生き方をぶっ放します。

「かしもの・かりもの」について現代的に考える その3

オンリーです。

 

本日は最終になる「かしもの・かりもの」について現代的に考えるその3

 

 

nantenhito.hateblo.jp

 

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1では食生活、その2では整理整頓や仕事・文化・教養という部分で

 

取り上げさせていただきましたが、

 

その3では、これこそ信仰心というものが重要視されるところだと感じています。

 

5,祈る・自然を感じる

 

これを一緒にしたのは、ある種自然を感じることも、

 

一つの「祈り」につながるからこそ、同じカテゴリにしました。

 

信仰者として「祈り」というのは非常に重要なもので

 

神社参拝をするとき、二礼二拍手をした後に祈る方も多いでしょう。

 

仏教でも、お経や念仏を唱えることで祈るわけですし

 

天理教においても、「おつとめ」というお祈りをすることで

 

神様に「届け!届け!」と日々お祈りされているかと思います。

 

とはいえ、各宗教でお祈りの仕方が違う中で

 

何故このお祈りをする習慣重要なのか??

 

これはやはり、「神仏」を含めた、

 

毎日への「感謝」をすることが重要だと感じます。

 

どの「お祈り」も共通することで重要なことって、

 

実は共通していることが多いということです。

 

「人様の幸せ(救済)を願うこと」

 

「日々毎日元気に過ごせていることに感謝」

 

「何かに対するお願い事をする」

 

実はどの宗教においても、信仰にしても、

 

中身は違えどやっていることは同じなのは何故でしょうか??

 

これは形式や形態が違うだけといえばいいでしょうか??

 

実際、天理教では「おつとめをしなければ人は助からない」などと

揶揄される方もいますが、

 

別に神社参拝をしている方や、

 

お経を唱えている僧侶さんが人を助けられないなんてことはありませんよね??

 

いわゆる、重要なのはおつとめそのものではなく、

 

おつとめの中にある言霊(ことだま)が重要なのです。

 

「あしきをはろうてたすけたまへてんりおうのみこと」

 

平たく言えば、「悪しき心を(おつとめで)払うので、神様お助けください!」

 

これを何回も唱えることで自分や周りの人に

 

潜在意識(無意識領域)にインストールし、

 

その人の心をすみやかにすることで病やケガ等が

治る事象が起こっていくわけです。

 

実際、信仰をされている方というのは

 

病気が治るということはあるあるですが、

 

これはお祈りやおつとめなどのことで

 

自分の心にある不安や邪気的要素のものが

 

解消され、心が生き生きするからこそ

 

病気が治るというミラクルが起こることがあります。

 

僕も数年前、天理教の修養科という

 

3か月修業をする場所に通いましたが、

 

この際、自分の身の回りで病気が治った!という報告を幾度となく聞かせていただきました。

 

これはもちろん、周りの人たちが毎日「祈った」結果も大きいとは思いますが、

 

その中で大きく見えたのはその人たちの「心」でした。

 

修業が始まった1か月目では、

 

お互いが壁を作るかのような

 

何かを隠し合うような状況でしたし、

 

顔色も暗く、ある種ひねくれた人も多くいました。笑

 

しかし、1か月が過ぎ、2か月が過ぎる中で

 

その人たちの心はどんどん晴れやかになっていきました。

 

一番変わったのは「使う言葉」でした。

 

最初は不平不満・愚痴をずっというかのような雰囲気だった中、

 

最後の方には、いい言葉を使う、

 

ある種めちゃくちゃ前向きな人へと変貌していきました。

 

もちろん、周りの人が祈ったから、

 

環境が変わったから

 

だからこそ心が晴れやかになり、病気もよくなっていった。

 

そう思えば、「祈る」というものが与える潜在的な力というのは、

 

とてつもないものだったりするわけです。

 

それが「利己」ではなく

 

いかに「利他」に祈られるか??

 

もポイントとして大きいでしょう。

 

人間が生きている理由って根底はここにあるなと思うわけで、

 

「人の為に生きる」

 

これをする為に、人間というのは存在しているんだとも思うわけです。

 

そしてこれは、別に宗教をしないとできないことでもありません。

 

社会で働く中でも

 

むしろ社会で働くからこそできることでもあります。

 

世の中の企業は、

 

「誰かに役に立つこと」

 

を仕事に変換しています。

 

コンビニにしても、ファーストフード店にしても、

 

スマホを開発することにしても、

 

その中での悪い面が出てきてはいるかもしれませんが

 

少なからず、「誰かが豊かに生きられる」ことを思ったことが

 

仕事にしていっています。

 

そう祈りながら、仕事をしていくことも、

 

一つの「かしもの・かりもの」を実践するものとなるでしょう。

 

そして「自然」を感じる。

 

特に今の世の中、自然を感じられる機会というものが昔に比べ減っています。

 

都心部はビルにアスファルトまみれ。

 

電子音がどこかしらになりっぱなしです。

 

移動も車や電車など便利になり、

 

子供も外で遊ばずゲームをする時間も多くなり、

 

何かしら自然が目につきづらくなってきています。

 

しかし、やはり人って自然を感じなくなれば、

 

「孤独感」が強くなれば、

 

心も暗くなっていくでしょう。

 

特にこのコロナ禍、リモートワークやステイホームを余儀なくされた方は、

 

ある種「孤独」を感じる時間が長かったことでしょう。

 

特に人間は太陽を浴びていない心が生き生きしない。

 

自然崇拝(アミニズム)を思えば、

 

自然を感じることも神様からのかしもの・かりもの

 

ある種神仏と触れ合う一種のものだと感じるわけです。

 

こういう時代だからこそ、「祈る」こと、「自然」を感じること。

 

これって当たり前のことかもしれませんが、触れることで、

 

生きることへの感謝が湧いてくる。そう思うばかりです。

 

というわけで、「かしもの・かりもの」を現代的に考えてみました。

 

また次もみていただければさいわいです。